神戸別院「1.17追悼法要」生徒作文朗読
2024年1月17日(水)、阪神・淡路大震災29年目を迎えるに当たり、浄土真宗本願寺派神戸別院(通称 モダン寺)で「阪神・淡路大震災物故者追悼法要」と「1.17いのちを考える研修会」が開催されました。
それに際し、同じ宗門である本校では、今一度「いのちの尊さ」を見つめ直す時間を持つことを目的に、「震災・いのち」についての作文を生徒から募集しました。その中から「中学の部」で特選に選ばれた川上泰明さんが、本校の代表として神戸別院にて作文を朗読いたしました。その作文を以下に、記載いたします。
題名「僕と僕の家族の阪神・淡路大震災」
「これからは一人で生きていくのか…。」大震災の日から4日間、被災地に住む家族と、連絡が取れなかった母は、そう思ったそうです。大学生だった母は震災のとき、実家には住んでいませんでした。ニュースで被害の大きさを見聞きするたびに、家族の死を意識したと言います。震災から二週間して家族と再会したとき、家族のありがたみを強く感じたそうです。
あの日父は会社の寮にいて、過去に感じたことのない揺れで起きました。廊下に出ると、寮の人たちも出て来ていて、何だか大変なことになったと話していました。寮は兵庫区の丘の上にありました。南側にある住宅地を見ると、たくさんの家が燃えていました。みんなどうして良いかわからず、ただ茫然と見ているだけでした。兵庫区でも多くの人が亡くなりました。
僕が小学生の時、毎年1月17日が近付くと震災についての授業がありました。その中で聞いた母親と娘さんのお話しが心に残っています。震災の日のお昼ごろにその親子は救出されました。お母さんは元気でしたが、娘さんは手術室に運ばれました。娘さんの左足は長い間、重い柱が乗りかかり、紫色になっていました。その足を見て、お母さんは、「娘の左足はあきらめよう。命が助かったのだから。」と思いました。手術室から出てきた娘さんの体はふくれ上がり、眼球が飛び出していました。それは長い時間、足が圧迫されて、腎臓と肝臓が働かなくなったからでした。そして震災から2週間ほどして娘さんは亡くなりました。11歳でした。このお話を聞いた日、僕は家に帰って、母に尋ねました。「僕が死んだら悲しい?」と。そうすると、母は、「当たり前よ。あなたが私よりも先に死んでしまったら、悲しくて悲しみで死んでしまうかもしれない。」と言いました。そのとき、僕の命は僕だけのものではないのだなと感じました。
以上が僕と僕の家族の震災のお話しです。この作文を書くにあたり、両親と祖母に大震災の時の話を聞いたり、小学校の時の震災の授業を思い出したりしました。そして、今思うのは、命と死はとなり合わせだということです。
いつ死ぬかわからないので、命がある間は、精一杯生きていこうと思います。
[当日の様子]